LOGIN白瀬こはるの母親から連絡が来たのは、昼過ぎだった。
その日は、ラジオを休みにする予定だった。
こはるの喉は昨日より落ち着いていたが、まだ長く話すと掠れる。
真柴さんからも「今日はなるべく声を使わないでください」と連絡が来ていたし、芽衣も「今日は完全休養。補給班命令」と言っていた。だから、喫茶こもれびの昼は比較的静かだった。
源三さんは午前中に来て、コーヒーを飲み、いつも通り「まずい」と言って帰った。
佐伯さんはナポリタンではなく白湯だけ頼み、「白湯って、何もしない味がするわね」と謎の名言を残した。 八百屋の親父さんはきゅうりのポップが気に入ったらしく、「まっすぐじゃないけど、ちゃんと冷たい」が売れていると報告しに来た。こはるは窓際の席で、ホワイトボードではなくメモ帳に新しいポップ案を書いていた。
『古いゲーム機です。
でも、負けた時の悔しさは新しいです。』ゲームセンターの朝日さん用らしい。
俺がそれを見て「名文だけど客が怖がらないか」と言うと、こはるは少しだけ笑い、下にこう書き足した。
『勝ったら、もっと新しいです。』
「商売が分かってきたな」
俺が言うと、こはるはホワイトボードに書いた。
【商店街に染まってきました】
「染まると戻れなくなるぞ」
【少し怖いです】
「だろうな」
【でも、嫌じゃないです】
その文字を見て、俺は少しだけ安心していた。
嫌じゃない。
最近のこはるは、その言葉をよく使うようになった。
好き、と言うにはまだ怖い。
楽しい、と言い切るにはまだ心が追いつかない。 でも、嫌じゃない。そのくらいの距離感が、今の彼女にはちょうどいいのだと思う。
そんな穏やかな昼だった。
俺のスマホが震えた。
最近、通知が来るたびに胃が身構える。
神谷レンか。
ネットの反応か。 真柴さんか。画面を見ると、真柴さんからだった。
『白瀬さんのお母様から、本人と話したいと連絡がありました』
俺は、少しだけ息を止めた。
窓際のこはるが、俺の顔を見た。
こういう時、自分の顔が情報漏洩装置なのが本当に困る。
こはるはホワイトボードを手に取る。
【何かありましたか】
俺は、すぐには答えられなかった。
母親。
こはるの口から何度か出てきた存在。
家族からの金の無心。
休めば家が困る。 戻らないと迷惑がかかる。断片的な話しか聞いていない。
完全な悪人にしてしまえば楽だ。
金のために娘を使っている毒親。 そう決めつければ、俺は怒りやすい。でも、人間はだいたいそう単純ではない。
こはるの母親も、きっと娘を全く心配していないわけではないのだろう。
心配している。 愛情もある。 でも、生活が絡む。 お金が絡む。 期待が絡む。そういうものは、悪意だけよりもずっと面倒だ。
「真柴さんから」
俺は言った。
「お母さんが、話したいって」
こはるの表情が、一瞬で消えた。
さっきまで、古いゲーム機のポップを書いていた女の子の顔ではなくなった。
肩が固まり、指先が白くなる。
俺はすぐに言った。
「今すぐ出なくていい」
こはるは首を横に振った。
【出ないと】
「その顔で出るな」
【でも】
「でもじゃない。声を使うなって言われてるだろ」
【母は、私が出ないと怒ります】
「怒らせとけ」
少し強い言い方になった。
こはるがびくっとする。
俺は息を吐く。
「悪い。でも、本当に今のお前がそのまま電話に出るのは危ない」
こはるは、ホワイトボードを握ったまま下を向いた。
その時、芽衣が裏口から入ってきた。
片手に弁当袋。
もう片方に、なぜか小さなみかんの入った袋。「補給便でーす。今日は卵焼きと、母さんが“ビタミンも大事”ってみかんを――」
途中で止まった。
店内の空気を見たのだろう。
芽衣は一瞬で真顔になった。
「何」
「こはるの母親から連絡」
俺が言うと、芽衣の眉が寄った。
「電話?」
「本人と話したいって」
芽衣はこはるを見た。
こはるは、ホワイトボードに小さく書いた。
【出ます】
「出なくていい」
芽衣が即答した。
こはるが驚いた顔をする。
芽衣は弁当袋を置き、こはるの前にしゃがんだ。
「こはるちゃん。今の顔で電話したら、たぶん言いたいこと言えない」
【でも、母なので】
「母でも」
芽衣の声は、いつもより静かだった。
「家族でも、今しんどい時は誰かに間に入ってもらっていいと思う」
こはるは、ホワイトボードに書く。
【そんなこと、していいんですか】
「いいよ」
【迷惑です】
「迷惑かけます。ありがとう、でしょ」
芽衣が言うと、こはるの目が揺れた。
何度も使ってきた言葉。
でも、家族相手になると、急に難しくなるのだろう。俺は真柴さんへ返信した。
『今、本人が直接話すのは難しいです。真柴さん同席、こちらもスピーカーで聞く形なら可能か確認します。本人の体調優先でお願いします』
送信してすぐ、既読がついた。
少しして返事。
『承知しました。お母様には、白瀬さんの体調を考慮し、短時間かつ同席ありでの通話と伝えます。無理なら中止します』
その文章を見て、俺はこはるに画面を見せた。
「こういう形なら、どうだ」
こはるは長い間、画面を見ていた。
それから、震える字で書いた。
【真柴さんも聞いてくれますか】
「そう言ってる」
【黒瀬さんも】
「聞く」
【芽衣さんも】
芽衣は少し驚いて、すぐに頷いた。
「聞く。必要なら卵焼きで殴る」
「物理攻撃はやめろ」
「じゃあ、精神的に卵焼きで支える」
「それもよく分からない」
こはるは少しだけ笑った。
でも、顔色は悪いままだった。
午後二時。
通話の準備をした。
喫茶こもれびの奥のテーブルに、こはるのスマホを置く。
スピーカーにする。 こはるは正面。 俺は少し離れた隣。 芽衣はこはるの反対側に座り、テーブルの端に卵焼きと白湯を置いている。「これ、会議の供物みたいだな」と言うと、芽衣は「必要」と真顔で返した。
こはるは声を使わない予定だ。
返答は、できるだけメモで俺たちに見せる。 必要なら、俺が読む。 本人が言いたい時だけ、短く声を使う。そう決めた。
約束事をホワイトボードに書いた。
【無理なら切る】
【声は少しだけ】 【謝りすぎない】 【白湯】 【卵焼き】「最後の二つ、通話ルールか?」
俺が聞くと、芽衣が言った。
「心のルール」
「なら仕方ない」
こはるは、そのホワイトボードを見て、小さく頷いた。
電話が鳴った。
店内の空気が固まる。
真柴さんからの通話だった。
こはるが、震える指で通話ボタンを押す。
スピーカー。
『白瀬さん、聞こえますか』
真柴さんの声。
こはるは小さく頷く。
電話なので見えない。俺が代わりに言う。
「聞こえています。黒瀬です。こちらには、白瀬さんと日向さんもいます」
『ありがとうございます。こちらには、私と白瀬さんのお母様がいます』
少しの沈黙。
そして、別の声が聞こえた。
『……こはる?』
柔らかい声だった。
思っていたより若く聞こえる。
疲れていて、少し湿っていて、でも確かに母親の声だった。こはるの肩が跳ねた。
彼女は、ホワイトボードを握りしめる。
『こはる、聞こえてるの?』
こはるは、口を開いた。
でも声が出ない。
代わりに、ホワイトボードへ書く。
【聞こえています】
俺は、それを読み上げた。
「聞こえています」
電話の向こうで、母親が息を吐く。
『どうして自分で話さないの』
最初の一言で、こはるの指が震えた。
真柴さんがすぐに入る。
『お母様、白瀬さんは現在、喉の状態が不安定です。声を使うと悪化する可能性がありますので、短い返答以外は控える形でお願いします』
『でも、母親ですよ? 他人の声じゃなくて、こはるの声を聞きたいんです』
母親の声に、少しだけ棘が混ざる。
分かる。
心配なのだろう。
娘の声を聞きたい。
それ自体は、自然な感情だ。でも、その自然さが今のこはるを追い詰める。
芽衣が、こはるの手元にそっと白湯を寄せた。
こはるはカップに触れた。
飲まない。 ただ、温度を確かめるように両手で包む。俺は言った。
「声を聞きたい気持ちは分かります。でも、今は声を出すこと自体が負担です」
『あなたは?』
「黒瀬です。喫茶こもれびの店主です」
『店主さん』
母親は、その言葉を確かめるように繰り返した。
『娘がお世話になっているそうで』
「はい」
『ありがとうございます』
礼は丁寧だった。
でも、すぐに続いた。
『でも、いつまでそちらにいるつもりなんでしょうか』
こはるの肩がまた固まる。
『休むのは仕方ないと思っています。体調が悪いのも分かります。でも、急にいなくなって、仕事も止めて、こちらにも何の説明もなくて。こはる、あなた、自分が何をしているか分かってる?』
こはるは、白湯のカップを握ったまま動かない。
母親は続けた。
『事務所の方からは説明を受けました。でも、私はあなたの母親です。あなたがどこで何をしているか、誰といるか、ちゃんと知る権利があるでしょう?』
権利。
その言葉が重かった。
真柴さんが抑えた声で言う。
『お母様、現在の滞在場所については、白瀬さんの安全のため詳細を伏せています』
『安全って、私が危ないみたいじゃないですか』
『そういう意味ではありません』
『じゃあ、どういう意味ですか。ネットで変な噂になっているんでしょう? だからこそ、早く戻ってきた方がいいんじゃないですか』
戻ってきた方がいい。
その言葉に、こはるが目を伏せた。
芽衣が、テーブルの下で拳を握っているのが見えた。
俺も口を挟みたかった。
でも、ここで俺が怒鳴ったら、こはるの立場が悪くなる。
それは、昨日から何度も学んだ。
大人は、怒りたい時ほど声を落とさなければならないらしい。
かなり難しい。
母親の声は、少し震えていた。
『家のこともあるの。こはる、分かってるでしょう? あなたが休むと、困ることがたくさんあるのよ。家賃も、弟の学校のことも、おばあちゃんの病院代も、全部急に止められるわけじゃないの』
弟。
祖母。
家賃。
病院代。
生活の言葉が並ぶ。
悪意だけなら、切り捨てられる。
でも、生活は重い。
生活は、人を逃がさない。
『もちろん、あなたの体が大事よ。そんなの当たり前でしょう? でもね、こはる。あなた一人の問題じゃないの。みんながあなたを頼りにしてるの』
こはるの呼吸が浅くなる。
母親は、優しいようで、残酷なことを言っている。
頼りにしている。
それは、聞こえのいい言葉だ。
でも、今のこはるには鎖だ。
こはるはホワイトボードに何かを書こうとした。
ペン先が震えて、うまく文字にならない。
芽衣が小声で言う。
「こはるちゃん、白湯」
こはるは少しだけ白湯を飲んだ。
母親が言う。
『こはる、何か言いなさい。黙っていたら分からないでしょう』
こはるの口が動く。
声は出ない。
涙だけが浮かぶ。
俺は、ホワイトボードに書かれかけた文字を見た。
ぐちゃぐちゃだった。
でも、読めた。
【ごめんなさい】
俺は、それを読まなかった。
こはるが俺を見る。
俺は首を横に振った。
謝りすぎない。
ルールだ。
こはるの目が揺れる。
母親の声が少し強くなる。
『こはる?』
沈黙。
真柴さんが入る。
『お母様、白瀬さんは今、返答が難しい状態です。少し時間を――』
『私は責めたいわけじゃありません』
母親はそう言った。
声は泣きそうだった。
『ただ、心配してるんです。こはるは昔から、肝心な時に黙ってしまう子で。何を考えてるか言わないから、周りが困るんです。今回だって、こんなに大ごとになる前に、ちゃんと言ってくれればよかったのに』
こはるの顔が、さらに白くなる。
昔から。
肝心な時に。
黙ってしまう。
その言葉は、こはるの声が出ない今に、あまりにも刺さりすぎていた。
芽衣が耐えきれずに口を開きかける。
俺は小さく手で制した。
芽衣が俺を睨む。
分かる。
俺も殴りたい。
卵焼きではなく、言葉で。でも、ここで俺たちが怒れば、母親は「ほら、変な人たちに囲まれている」と思うかもしれない。
それは、こはるの逃げ場を狭める。
真柴さんが、落ち着いた声で言った。
『お母様。今の白瀬さんは、肝心な時に黙っているのではなく、体調として声を出すことが難しい状態です。そこは区別してください』
電話の向こうが静かになる。
真柴さんの声は、仕事の声だった。
でも、昨日より冷たくない。『また、経済的なことについては、事務所側でも休止中の対応を確認します。白瀬さん個人にこの場で全て背負わせる話ではありません』
『でも、現実に困るのは私たちなんです』
『はい。現実に困ることは理解しています。ただ、その困りごとを今の白瀬さんにそのまま渡しても、解決にはなりません』
真柴さん、強い。
芽衣が小さく「真柴さん、卵焼き陣営」と呟いた。
今言うことか。
でも、少しだけ空気が緩みかけた。
しかし、こはるの母親は黙らなかった。
『こはるは、昔から優しい子なんです』
その声は、少し泣いていた。
『だから、みんなのために頑張れる子なんです。配信だって、最初は大変だったと思います。でも、たくさんの人に必要とされて、やっと自分の居場所を見つけられたんじゃないですか』
こはるの手が、白湯のカップから離れた。
『お母さんは嬉しかったのよ。あなたがちゃんと認められて。家にもお金を入れてくれて。おばあちゃんも、こはるはすごいねって。弟だって、友達に自慢してたのよ』
それは褒め言葉だった。
間違いなく。
でも、こはるは泣いていた。
褒められて、泣いていた。
『だから、少し休んだら戻れるわよね? ねえ、こはる。あなたなら大丈夫でしょう? 今までも頑張ってきたんだから』
芽衣が、唇を噛んだ。
俺も、手を握りしめる。
あなたなら大丈夫。
今までも頑張ってきたんだから。
優しい言葉だ。
でも、それは「これからも頑張れるでしょう」と同じ意味で響く。
こはるは、震える手でホワイトボードに書いた。
【私は】
そこで止まる。
ペンが動かない。
涙が落ちる。
俺は言った。
「ゆっくりでいい」
芽衣も言う。
「大丈夫。白湯ある。卵焼きもある」
こはるは、涙で滲んだ目でホワイトボードを見る。
そして、何度も書き直しながら、ようやく一文を書いた。
【私は、お金じゃないです】
店内が止まった。
俺も、芽衣も、息を呑んだ。
こはるは、ホワイトボードを見つめている。
それを電話の向こうに伝えるべきか。
俺は迷った。
これはこはるの言葉だ。
重い。
あまりにも重い。でも、彼女が今、必死に絞り出した言葉だ。
俺は聞いた。
「読むか?」
こはるは、涙をこぼしながら、小さく頷いた。
俺は息を吸った。
「白瀬さんは、こう書いています」
電話の向こうが静かになる。
「私は、お金じゃないです」
沈黙。
長い沈黙。
電話の向こうで、母親が息を詰めたのが分かった。
『……そんなこと』
声が震えている。
『そんなこと、思ってたの?』
こはるは目を閉じた。
ホワイトボードにまた書く。
【思いたくなかったです】
俺は読む。
「思いたくなかったです」
『お母さんは、あなたをお金だなんて思ってないわよ』
母親の声が揺れる。
『そんなふうに言われるなんて、思わなかった。私はただ、家族として――』
こはるが、必死に書く。
【家族なら、休みたいと言った時に、休んでいいと言ってほしかったです】
俺は、読みながら喉が詰まりそうになった。
「家族なら、休みたいと言った時に、休んでいいと言ってほしかったです」
電話の向こうで、母親が何か言いかける。
真柴さんが静かに言う。
『お母様、今は受け止めてください』
母親は黙った。
こはるは、もう一文書いた。
【でも、困らせてごめんなさい】
俺は、それを見た。
読みたくなかった。
謝りすぎない、と決めたのに。
でも、こはるは首を横に振った。
これは言いたいのだ、という目だった。
俺は読む。
「でも、困らせてごめんなさい」
母親が、小さく泣いた。
完全な悪人ならよかった。
泣かなければよかった。
でも、泣いた。
娘に「私は、お金じゃない」と言われて、母親は傷ついた。
その傷つき方が、こはるをまた傷つける。
人間関係は本当に面倒だ。
母親は、泣きながら言った。
『こはる……お母さん、そんなつもりじゃ』
こはるは、ホワイトボードを見つめたまま動かない。
真柴さんが入る。
『本日の通話はここまでにしましょう。お母様、白瀬さんの体調を考えると、これ以上は負担が大きいです』
『でも』
『続きは後日、私を通してください。経済的なことも、事務所として整理します。今この場で白瀬さんに全て答えさせないでください』
真柴さんの声は、強かった。
電話の向こうで、母親はしばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
『……こはる』
こはるは、顔を上げない。
『体は、大事にして』
その言葉だけは、本当に母親の声だった。
でも、こはるには届いたのかどうか分からない。
こはるは、ホワイトボードに小さく書いた。
【はい】
俺は読んだ。
「はい」
通話は切れた。
店内に、ものすごい静けさが落ちた。
こはるは、ホワイトボードを膝に置いたまま、動かなかった。
芽衣がすぐに抱きしめようとして、途中で止まった。
抱きしめていいのか迷っている。
こはるが、それに気づいたのか、小さく手を伸ばした。
芽衣は何も言わず、こはるの肩に腕を回した。
こはるは、声を出さずに泣いた。
静かな泣き方だった。
月乃こはねの明るい声も、匿名ラジオの掠れた声もない。
ただ、白瀬こはるが泣いていた。
俺は、何もできなかった。
白湯を温め直すくらいしか。
だから、そうした。
鍋に水を入れ、火にかける。
湯気が上がるのを待つ。
その間、俺は自分の拳が震えているのを見ていた。
怒り。
悲しさ。 無力感。母親に怒りたい。
でも、母親だけを悪者にできない。
生活に怒りたい。
お金に怒りたい。 家族という言葉の重さに怒りたい。でも、怒ったところで何も解決しない。
湯が沸く。
少し冷まして、カップに注ぐ。
こはるの前に置く。
「白湯」
こはるは、芽衣に支えられたまま、カップを見た。
そして、震える手で受け取った。
「飲めそうか」
こはるは頷いた。
少しだけ飲む。
芽衣が言う。
「卵焼きもある」
こはるは、小さく首を横に振った。
今は食べられないらしい。
芽衣はすぐに引っ込めた。
「じゃあ、あとで」
こはるは頷いた。
しばらくして、彼女はホワイトボードに書いた。
【言ってしまいました】
「言ったな」
【ひどいことを】
「ひどくない」
【母が泣きました】
「泣いたな」
【私が泣かせました】
「違う」
俺は、少し強めに言った。
「お前が泣かせたんじゃない。お前が本当のことを言ったら、お母さんも傷ついた。それだけだ」
【同じです】
「違う」
こはるは、涙で濡れた目で俺を見る。
「本当のことを言って誰かが傷つくことはある。でも、それは本当のことを言った人間だけが悪いって意味じゃない」
こはるは、ホワイトボードを握る。
【難しいです】
「難しいな」
【家族なのに】
「家族だから難しいんだろ」
芽衣が隣で小さく頷いた。
「うちも、家族だから言いにくいことあるよ」
こはるが芽衣を見る。
芽衣は、少し苦笑した。
「父さんに“唐揚げ揚げすぎ”って言うの、毎回ちょっと大変」
「それは言ってるだろ」
「言ってるけど、父さんの愛情を否定するみたいでさ。本人は本気で喜ばせたいんだよ。唐揚げで」
「スケールは違うけど、分からなくはない」
芽衣は、こはるの肩をそっとさすった。
「こはるちゃんのお母さんも、たぶん心配してるんだと思う。だからって、こはるちゃんが全部背負わなくていい」
こはるは小さく頷いた。
だが、目はまだ暗い。
夕方まで、こはるはほとんど話さなかった。
声も使わない。
ホワイトボードも必要最低限。芽衣は日向弁当に戻らず、こもれびに残った。
父親から「唐揚げが余った」と連絡が来たが、「今日はそっちで何とかして」と返していた。源三さんも途中で来た。
店内の空気を見て、すぐに何かあったと察したらしい。
「黒瀬」
「はい」
「今日はコーヒーはいらん」
「珍しいですね」
「まずいものを飲む気分じゃない」
「いつも飲んでるじゃないですか」
「いつもは飲む気分なんだ」
意味は分からないが、たぶん気を遣っている。
源三さんはこはるを見る。
「娘」
こはるは顔を上げる。
「白湯を飲め」
それだけ言った。
こはるは小さく頷いた。
源三さんは、それ以上何も聞かずに帰った。
本当に、気を遣っているのかもしれない。
夜になった。
ラジオは休むつもりだった。
当然だ。
こんな日に配信なんかできるわけがない。
しかし、閉店後、こはるがホワイトボードに文字を書いた。
【少しだけ、話したいです】
俺は驚いた。
「ラジオで?」
こはるは頷く。
芽衣が心配そうに身を乗り出す。
「こはるちゃん、今日はやめてもいいよ」
【やめてもいいのは分かっています】
「じゃあ」
【でも、言いたいことがあります】
俺は、ホワイトボードの文字を見る。
その字は、震えている。
けれど、逃げている字ではなかった。「何を言うつもりだ」
こはるは少し迷った。
それから、書いた。
【誰かの役に立てない日も、生きていていいんでしょうか】
俺も芽衣も、言葉を失った。
こはるは、その文字を自分でも見つめていた。
【今日は、それだけ言いたいです】
「重いぞ」
俺は正直に言った。
こはるは頷く。
【はい】
「コメント欄が荒れるかもしれない」
【はい】
「自分もしんどくなるかもしれない」
【はい】
「それでも?」
こはるは、少しだけ目を伏せた。
そして、ホワイトボードに書く。
【私だけじゃないかもしれないので】
その一文で、俺は止められなくなった。
匿名ラジオは、救済ごっこをする場所ではない。
誰かに正解を与える場所でもない。でも、自分だけではないかもしれない、と確かめる場所にはなれる。
それなら。
「短くする」
俺は言った。
「今日は本当に短く。十分以内。コメントは俺が見る。嫌な流れになったら切る」
【はい】
「終わったら白湯」
【はい】
芽衣が言う。
「卵焼きは?」
こはるは少しだけ考えて、書いた。
【あとで】
「了解。あとで卵焼き」
芽衣は頷いた。
夜の喫茶こもれびに、明かりを一つだけ残した。
カウンターにマイク。
横に白湯。 こはるはマイクから少し離れた椅子に座る。番組名は変わらない。
『夜の商店街、まだ明かりついてます』
配信説明は、短くした。
『今夜は少しだけ。白湯が冷める前に終わります。』
配信開始。
同接、四。
すぐに九。
コメントが流れる。
【こんばんは】
【今日は休みかと思ってました】 【無理しないで】 【白湯持ってきた】俺はマイクに向かう。
「こんばんは。夜の商店街、まだ明かりついてます。今日は短いです。白湯が冷める前に終わります」
少し間を置く。
「今日は、商店街の話というより、少しだけ重い話です。重い話が苦手な人は、白湯だけ飲んで閉じても大丈夫です」
コメント欄が少し静かになる。
こはるが、俺を見る。
俺は頷いた。
マイクを少し向ける。
こはるは、息を吸った。
声は震えていた。
「……こんばんは」
コメント。
【こんばんは】
【声、無理しないで】 【聞いてる】こはるは、目を伏せたまま言った。
「今日は……うまく、話せないです」
いつもより、さらにゆっくり。
「誰かの役に立つことが……できない日が、あります」
店内が静かになる。
芽衣は両手を握りしめていた。
俺はコメント欄を見ている。
「そういう日は……自分に、価値がないような気がします」
コメントが止まる。
「でも」
こはるの声がかすれる。
俺は止めようとした。
こはるは小さく首を横に振る。
「でも、誰かの役に立てない日も……生きていていいんでしょうか」
その問いは、マイクに吸い込まれるように消えた。
しばらく、コメントは流れなかった。
一秒。
二秒。 三秒。長い。
こはるの手が震える。
俺は、もう配信を切ろうかと思った。
その時、最初のコメントが流れた。
【いいと思う】
次。
【今日、何もできなかった】
【仕事休んだ】 【学校行けなかった】 【一日布団にいた】 【でも今これ聞いてる】 【役に立てない日、あります】 【生きてていいって言ってほしい】こはるの目から、涙が落ちた。
コメントはゆっくり流れる。
速くない。
でも、止まらない。【自分も今日は何もできなかった】
【白湯しか飲んでない】 【でも白湯飲めたから勝ちにしたい】 【役に立つとか考えるの疲れた】 【聞いてるだけでもいいですか】芽衣が、後ろで泣いていた。
俺も危なかった。
だが、マイクの前で泣くわけにはいかない。
俺は声を整えた。
「聞いてるだけでもいいと思います」
コメントが止まる。
「というか、今ここにいる時点で、十分だと思います。役に立つとか立たないとか、今日はちょっと横に置いておきましょう。俺も今日は、まずいコーヒーしか淹れてません」
コメント。
【まずいコーヒーw】
【それは役に立ってる】 【白湯もある】 【店主さんも休んで】俺は少し笑った。
「ありがとうございます。店主はこの後、白湯を飲みます」
こはるが涙を拭く。
そして、もう一度だけマイクに向かった。
「聞いてくれて……ありがとうございます」
短い。
でも、それで十分だった。
俺は配信を締める。
「今日はここまでです。白湯が冷める前に終わると言ったので、本当に終わります。何もできなかった人も、白湯だけ飲んだ人も、布団にいた人も、店主も、補給班も、今日はここまで生き残ったので勝ちにします」
芽衣が後ろで小さく言う。
「勝ち」
コメント。
【勝ち】
【今日は勝ち】 【白湯飲みます】 【ありがとう】 【おやすみ】配信終了。
店内に静けさが戻る。
こはるは、マイクの前で泣いていた。
芽衣がすぐに白湯を差し出す。
「補給」
こはるは受け取り、少し飲んだ。
それから、掠れた声で言った。
「……私だけじゃ、なかったです」
「そうだな」
「役に立てない日がある人、いました」
「いたな」
「……少し、息ができます」
俺は頷いた。
何かいいことを言おうとした。
でも、やめた。
代わりに、卵焼きの容器を開けた。
「あとでって言ってたな」
こはるは泣きながら、少し笑った。
「……はい」
芽衣が卵焼きを一切れ取り、こはるの皿に置く。
「今日は、これ食べたら勝ち」
こはるは、卵焼きを見つめる。
そして、小さく頷いた。
「……勝ちます」
その声は、まだ弱かった。
でも、確かに自分のために出した声だった。
第17話 まずいコーヒーがバズりかける まずいコーヒーが、少しだけ話題になった。 言葉にすると意味が分からない。 コーヒーというものは、本来うまい方がいい。 喫茶店にとって、コーヒーがまずいという評判は、普通に考えれば致命傷である。 少なくとも、俺はそう思っていた。 だが、ネットという場所は本当に分からない。 昨夜の匿名ラジオが終わってから数時間後、ラジオ用アカウントにいくつか感想が流れてきた。【夜の商店街って匿名ラジオ、ちょっといい。白湯飲みたくなるし、役に立たない日でも少しだけ息できる】【シャッターを上げるだけの日、刺さった】【今日はこれでいいツナマヨ、商品化してほしい】 そこまでは分かる。 いや、ツナマヨの商品化は日向家案件なので少し怖いが、まだ分かる。 問題は、その次だった。【まずいコーヒー飲んでみたい】 これである。 俺は、朝の喫茶こもれびのカウンターで、その投稿を見つめながら固まった。 投稿には、いいねが四つ付いていた。 四つ。 小さい。 ものすごく小さい。 昔の俺なら気にも留めなかった数字だ。 だが今の俺には、その四つが妙に重かった。 四人も、まずいコーヒーに興味を持っている。 この世界は大丈夫なのか。「……何でだよ」 俺は思わず呟いた。 窓際の席でホワイトボードに何かを書いていたこはるが顔を上げた。 今日は声を温存する日だ。 昨日のラジオで思ったより喋ったため、朝はなるべく声を使わないことになっている。 こはるはホワイトボードに書いた。
第16話 役に立たない日のラジオ 翌朝、喫茶こもれびのテーブルには、白湯と卵焼きと、昨日のラジオのコメント欄が並んでいた。 正確には、コメント欄はノートパソコンの画面の中にある。 でも、感覚としては、テーブルの上に置かれているようだった。 白湯のカップ。 少し焼き目のついた甘い卵焼き。 日向弁当の小さなおにぎり。 そして、夜のどこかから届いた、知らない人たちの言葉。【いいと思う】【今日、何もできなかった】【仕事休んだ】【学校行けなかった】【一日布団にいた】【でも今これ聞いてる】【役に立てない日、あります】【生きてていいって言ってほしい】【白湯しか飲んでない】【でも白湯飲めたから勝ちにしたい】 白瀬こはるは、そのコメント欄を何度も読んでいた。 朝から、ずっと。 声は出していない。 喉を休ませるためでもあるし、昨日の電話と配信で、心の方が疲れているのもあった。 それでも、こはるは画面から目を離さなかった。 俺はカウンターでコーヒーを淹れながら、その様子を見ていた。「読みすぎると疲れるぞ」 こはるは、ホワイトボードに書いた。【疲れます】「じゃあ休め」【でも、読みたいです】「疲れるのに?」【はい】 少し間を置いて、彼女は書き足す。【私だけじゃなかったので】 その文字を見て、俺は何も言えなくなった。 昨夜、こはるはラジオで問いかけた。『誰かの役に立てない日も、生きていていいんでしょうか』 それは、誰かに向けた問いであると同時に、こはる自身がずっと自分に投
第15話 こはるの母からの電話 白瀬こはるの母親から連絡が来たのは、昼過ぎだった。 その日は、ラジオを休みにする予定だった。 こはるの喉は昨日より落ち着いていたが、まだ長く話すと掠れる。 真柴さんからも「今日はなるべく声を使わないでください」と連絡が来ていたし、芽衣も「今日は完全休養。補給班命令」と言っていた。 だから、喫茶こもれびの昼は比較的静かだった。 源三さんは午前中に来て、コーヒーを飲み、いつも通り「まずい」と言って帰った。 佐伯さんはナポリタンではなく白湯だけ頼み、「白湯って、何もしない味がするわね」と謎の名言を残した。 八百屋の親父さんはきゅうりのポップが気に入ったらしく、「まっすぐじゃないけど、ちゃんと冷たい」が売れていると報告しに来た。 こはるは窓際の席で、ホワイトボードではなくメモ帳に新しいポップ案を書いていた。『古いゲーム機です。 でも、負けた時の悔しさは新しいです。』 ゲームセンターの朝日さん用らしい。 俺がそれを見て「名文だけど客が怖がらないか」と言うと、こはるは少しだけ笑い、下にこう書き足した。『勝ったら、もっと新しいです。』「商売が分かってきたな」 俺が言うと、こはるはホワイトボードに書いた。【商店街に染まってきました】「染まると戻れなくなるぞ」【少し怖いです】「だろうな」【でも、嫌じゃないです】 その文字を見て、俺は少しだけ安心していた。 嫌じゃない。 最近のこはるは、その言葉をよく使うようになった。 好き、と言うにはまだ怖い。 楽しい、と言い切るにはまだ心が追いつかない。 でも、嫌じゃない。 そのくらいの距離感が、今の彼女にはちょ
第14話 芽衣は、少しだけ面白くない 日向芽衣は、明るい。 少なくとも、この商店街ではそういうことになっている。 日向弁当の娘。 いつも声が大きくて、配達用の自転車を全力でこいでいて、揚げたての唐揚げを一つ多く入れたことを母に怒られ、父の揚げすぎを止め、常連の老人に雑に絡み、客の愚痴を「はいはい」と聞き流しながら、最後には笑って弁当を渡す。「芽衣ちゃんがいると、店が明るくなるね」 そう言われるのは、嫌いではなかった。 むしろ、嬉しかった。 自分がいることで、誰かが少し楽になるなら。 沈みかけた商店街の中で、日向弁当の灯りが少しでも明るく見えるなら。 それは、まあ、悪いことではない。 でも、たまに思う。 明るいって、便利な言葉だ。 明るい子は怒らない。 明るい子は面倒を拾える。 明るい子は、冗談で返せる。 明るい子は、ちょっと傷ついても次の日には笑っている。 そんなルール、誰も言っていない。 言っていないのに、いつの間にか自分で守っている。「……面倒くさ」 芽衣は日向弁当の厨房で、卵焼きを巻きながら小さく呟いた。 朝の仕込みは戦争だ。 父は唐揚げを揚げている。 母はレジ横の予約表を確認している。 炊飯器からは湯気。 まな板の上には、刻まれた漬物。 ラジオからは、天気予報と交通情報。 いつもと同じ朝。 なのに、芽衣の頭の中には、昨夜の匿名ラジオのコメントが残っていた。【元気そうって言われると、元気じゃないって言えなくなる】 あれは、たぶん自分にも関係がある。 認めたくないけど、ある。「芽衣、
第13話 白湯ラジオ、二回目 翌朝、喫茶こもれびのカウンターには、おにぎりと卵焼きと白湯が並んでいた。 喫茶店とは。 いや、もう考えないことにした。 この店は、数日前から喫茶店というより避難所であり、商店街会議室であり、謎の匿名ラジオ局であり、日向弁当の出張所でもある。 コーヒーだけは一応ある。 ただし、常連の老人から毎日まずいと言われる。 俺はカウンターに立って、昨夜の短い配信アーカイブを確認していた。『夜の商店街、まだ明かりついてます』 二回目……と呼ぶには少し短かった。 正確には、予定外の短い放送。 テーマは、優しい言葉が怖い日。 こはるは、たどたどしい声で言った。『優しい言葉が、怖い時があります』 その言葉は、コメント欄に思ったより深く刺さっていた。【分かる】【大丈夫?って聞かれるのしんどい時ある】【元気そうって言われると、元気じゃないって言えなくなる】【おにぎり食べます】【白湯とおにぎり、優勝】 最後だけ急に生活感が強い。 だが、悪くなかった。 むしろ、このラジオはそういうものなのかもしれない。 深刻な話をしているのに、最後は白湯や卵焼きやおにぎりへ戻ってくる。 逃げているようで、逃げていない。 重いものを、食べられる大きさに切り分けている感じ。 俺には、そう見えた。 ソファでは、白瀬こはるがホワイトボードを膝に乗せて座っている。 声はまだ完全ではない。 昨夜、少し話した後はまた喉が詰まった。 真柴さんからも「声は短時間のみ。無理をしないでください」と追加の連絡が来ている。 業務指示が少し人間らしくな
第12話 神谷レンは、優しい顔で火を近づける 神谷レンという男は、昔から文章がうまかった。 うまい、というより、綺麗だった。 角がない。 刺がない。 読み手が勝手に好意を補ってくれる余白がある。 たとえば、今朝届いたメッセージもそうだ。【昨日の配信、聞いたよ。いい声の子だね】 ただ読むだけなら、褒め言葉だ。 昨日の匿名ラジオを聞いた。 声がよかった。 それだけ。 何も悪いことは書いていない。 誹謗中傷でもない。 脅しでもない。 むしろ、優しい。 けれど、その「優しさ」の形が、俺の胃の奥を冷たくした。 いい声の子。 それは、こはるの一番柔らかい場所に触れる言葉だった。 彼女は声で生きてきた。 声で救われ、声で求められ、声で追い詰められ、声が出なくなった。 それを知っているのか。 知らずに言ったのか。 どちらにしても、嫌だった。 俺は喫茶こもれびのカウンターで、スマホを伏せたまま、しばらく動けずにいた。 午前中の店内は、いつも通り静かだった。 源三さんは新聞を読みながら、まずいコーヒーを完飲している。 芽衣は弁当屋に戻ったり、また来たりを繰り返している。 こはるは窓際の席で、ホワイトボードを膝に置き、昨日のアーカイブのコメント欄をゆっくり読んでいた。 たった十二人のコメント欄。 その小さな場所が、今の彼女には大事だった。 だからこそ、俺は神谷レンのメッセージをどう扱うべきか迷っていた。 見せるべきか。 見せないべきか。 隠せば、こはるは今の穏やかな顔のままでいられるかもしれない。